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天声人語

【天声人語】2005年10月01日(土曜日)付

今年も食欲の秋が巡って来た。思えば、今から60年前の終戦前後は、多くの人が食糧難に苦しんでいた。本紙・声欄に寄せられた投書を編んだ新刊『庶民たちの終戦』にも戦後の様々な出来事とともに、ひもじかった日々がつづられている。  

 国民学校の4年だった渡辺マツ代さんは、群馬・高崎から父の出身地の妙義山のふもとへ、祖父や姉妹と疎開していた。いつも腹が減っていて、沢ガニやカエルが貴重なごちそうだった。

 ある夜、隣に寝ていたはずの祖父の姿が見えなくなった。やがて、戸板に乗せられて帰ってくる。裏山のがけから落ちて死んだらしい。冷たくなった祖父の右手に親指大の小さなサツマイモが握られていた。「孫たちに食べさせたいと思ったのでしょうか」\
 占領軍の残飯捨て場に、鍋を手にした女性たちが群がっていた。当時17歳だった金武聖子さんは、情けなくて歯ぎしりしたという。「子供に分け与えていたのだろう。今なら母親の愛と強さなのだと、しみじみ感じることができる」

 水澤間津男さんは、家に猫が迷い込んできた時のことを書いている。飼う余裕はなかったが、よくネズミを捕るので置くことにした。ある日、猫が牛肉の塊をくわえて来て、どこかに行ってしまう。肉をどうするか。結局、一宿一飯の恩義を感じた猫が持ってきたのだからと、家族でありがたく頂戴(ちょうだい)する。「猫の獲物を『ネコババ』する衣食足らざる時代の、思い出とも言えぬミミッチイ話である」

 今この国では、食品のざっと3割弱が、残飯となって捨てられている。

【天声人語】2005年10月02日(日曜日)付

 宝塚歌劇団の元トップスター大浦みずきさんは運動神経に恵まれ、駆けっこなら小中学校を通じて1位の記憶しかない。でも不思議なことに、家族はそろって運\\動音痴だった。\r

 特に父は瞬発の才に乏しく、運動らしい運\\動をする姿を見たことがない。この春、79歳で亡くなった詩人の阪田寛夫さんである。いとこで幼時から親しかった作曲家の大中恩(めぐみ)さん(81)も「彼の運動神経には同情した。走るのも投げるのも滑るのも苦手でした」と話す。\

 数々の童謡で知られた阪田さんにこんな詩がある。「びりのきもちが わかるかな/みんなのせなかや 足のうら/じぶんの鼻が みえだすと/びりのつらさが ビリビリビリ」(『ばんがれまーち』理論社)。校庭の隅で、自らの鈍足にため息をついた人には、懐かしくも切ない記憶だろう。

 駆けっこは明治の昔から運動会の花形 だった。競技史に詳しい手島宗太郎さん(71)によると、日本で最初の運\\動会は明治7年に東京の海軍兵学寮で開かれているが、英国人教官らが決めた種目の大半は「疾駆」ものである。明治11年に米国式で始まった札幌農学校の運動会でも、やはり走力を競う「電奔」が多かった。\\r

 明治後半に騎馬戦が流行し、大正期には遊戯が広まる。戦時中には敵機襲来など新競技も生まれた。時代を映す運動会だが、プログラムから駆けっこが消えたことはない。\

 この季節、スタートの号砲を聞くと、何歳になっても胸がしめつけられるという人がいる。最後尾でもがく生徒に、昔のわが身を重ね、ひとりで目頭を熱くしたりする。

【天声人語】2005年10月03日(月曜日)付

 「耳マーク」をご覧になったことがあるだろうか。役場や病院で窓口に掲げているところがある。「耳の不自由な方は筆談します」というような文言が添えられている。一方で、耳マークのカードやシールを持ち歩いている人がいる。そこには「耳が不自由です」と書かれている。

 普及活動をしているのは全日本難聴者・中途失聴者団体連合会だ。耳マーク部長を務める長田由美子さん(61)は「聴覚障害は外見ではわかりにくい。人生の途中で耳が不自由になった私たちは、普通に話せるので、なおさらです」という。耳マークを身につけることで、障害を周りの人に知ってもらう。窓口に置いてもらえば、筆談を頼みやすい。

 とはいえ、それほど知られているとはいえない。「理由の一つは、中途での失聴者や難聴者が自分の障害を隠しがちだからです。私もかつてはそうでした」

 長田さんは幼い頃に中耳炎を患い、徐々に聴力が落ちた。出産後、補聴器をつけた。聞き取れなくても聞こえるふりをしていた。転機になったのは8年前、父を亡くした時だ。葬儀の後、親族の間でどんどん話し合いが進んでいく。「私はわからない」と声を荒らげてしまった。その時、ようやく難聴という障害を受け入れることができた。

 一口に聴覚障害者といっても障害の状況は同じではない。手話や筆談など意思疎通の手段も様々だ。足並みは必ずしもそろわない。

 それでも、長田さんは外出にはいつも耳マークのバッジをつける。一人でも多くの人に聴覚障害者の実情を知ってもらいたいからだ。

【天声人語】2005年10月04日(火曜日)付

 5年前に米国で亡くなった大野乾(すすむ)氏は、天才肌の遺伝学者として知られた。ノーベル賞級と折り紙のついた研究のかたわら、奇抜な仮説で時に学界を驚かせる。その一つが19年前に発表した遺伝子音楽だった。

 遺伝子こそが美感を左右すると説き、ニジマスやブタ、ニワトリのDNAの配列を音符に置き換えた。妻の翠(みどり)さん(76)にピアノ演奏を頼み、これはバッハ風だ、いやドビュッシーに近いと分析した。音楽界では好評だったが、生物学の世界では「非科学的」と異端視された。

 ロサンゼルス郊外に住む翠さんのもとに今春、日本から1枚のCDが届いた。県立広島国泰寺高校の生徒たちが3年がかりで作ったオオサンショウウオの遺伝子音楽だった。生物班の生徒がDNAを解析し、大野理論に従って五線譜に落とした。ヒトの遺伝子から作った曲もあり、翠さんは懐かしさにじっと聴き入った。

 同じCDを聴いてみた。サンショウウオの調べはモーツァルト風の軽快さに満ち、伸びやかで明るい。対照的に、ヒトの遺伝子音楽は重く物悲しく、苦悩の旋律がベートーベンを連想させた。

 生物班を指導した広島大の三浦郁夫助教授(46)によると、今回も「科学の領域を外れている」という批判があった。それでも遺伝子の音を聴く試みに、高校生たちは休日を忘れて取り組んだ。

 参加したのは3学年の19人。この夏、代表2人が訪英し、現地の大学や高校で調べを披露して拍手を浴びた。解析されたサンショウウオのDNA情報は9月末、国立遺伝学研究所を通じて、世界に公開された。

【天声人語】2005年10月05日(水曜日)付

 動物好きが、イヌ派とネコ派に分かれるならば、ミステリー好きは、ホームズ派とルパン派に分かれるかもしれない。むろん両方が好きな人もいるだろうが、難事件を解決する名探偵と、神出鬼没の怪盗紳士では、好みもずいぶん異なる。

 金持ちの財宝は奪うが、人は殺さず、弱い者にやさしいルパンには、圧倒的に女性ファンが多い。善と悪の両面を持つ影のある人物像も魅力のようだ。ホームズに比べると、実はルパンの方が登場は20年近く遅い。

 作者のルブランは、当時すでに有名だったホームズを自作に登場させて、「遅かりしホームズ」なんて作品を書いたものだから、ホームズの作者ドイルが、怒りの手紙を寄越したほどだ。そのルパンが、今年は生誕100年だ。

 フランスの映画が封切られたり、新しい翻訳も出たり、にぎやかである。しかし、日本にこれだけファンが多いのは、なんと言っても、子ども向けにルパンを紹介してきた作家の故南洋一郎さんの役割が、大きい。

 彼の筆によるポプラ社のルパン全集で、どれだけ多くの人がルパンの魅力にとりつかれたことか。58年の初版以来累計880万部に及ぶ。大人向けの翻訳とはずいぶん違う。わかりにくい筋はそぎ落とし、テンポよく展開する。

 南さんが加筆した部分は、若き日の彼自身の見聞に基づいて、西洋の風物をわかりやすく説明しているところだ。明治以来の西洋文化の摂取の陰には、そのエッセンスを日本人に消化しやすい形で紹介した多くの先達がいた。南さんのルパンもその偉大な伝統に連なっている。

【天声人語】2005年10月06日(木曜日)付

イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイは、ミケランジェロが死んだ年に生まれ、ニュートンの生まれた年に死んだ。ルネサンスと近代科学に橋を架けた生涯を象徴する巡り合わせだ。これは史実だが、ガリレオにまつわる話には史実とは言えないものがある。

 「それでも地球は動く」。地動説を支持したために問われた宗教裁判での言葉というが、これも創作されたものらしい。

 小泉首相は、郵政民営化法案が参院で否決されて衆院を解散した日の会見で、この言葉を持ち出した。強大な宗教権力によって断罪されたガリレオと自らを重ねるようにして訴えた。日本の政治の最高権力者がガリレオの立場にあるはずもないが、再び法案を審議中の国会で4日、この言葉を巡るやりとりがあった。\

 「ガリレオはローマ教皇(法王)庁に『意見を変えなさい』と言われた。首相は圧力を加えて『賛成に回れ』と。ガリレオでなくローマ教皇(庁)だ」。民主党議員に指摘され、首相は「首相に与えられた権限を最高に活用するのも民主主義」と答えた。

 ガリレオの時代は、地球が高速で自転しているのなら、石や動物は飛ばされてしまうはずだとの議論があった。ガリレオは「愚かにも……たれかが大地は動くと最初にいったときにはじめて動き出し、それ以前は動いていなかったように考えるのです」と批判した(『天文対話』岩波文庫・青木靖三訳)。

 後世の人々は彼の先見に深くうなずき、裁いた側は歴史に裁かれた。「権限を最高に活用」した首相を歴史はどう判断するだろうか。

【天声人語】2005年10月07日(金曜日)付

星にちなむ全国アンケートで、好きな天体の第1位に「すばる(プレアデス星団)」が選ばれたことがある。昔から日本人にはなじみが深く、清少納言も「星は すばる。ひこぼし。ゆふづつ」と「枕草子」でうたっている。

 おうし座にあり、六つの星が見えることから六連星(むつらぼし)ともよばれた。この六つの星をデザインしたマークが「スバル車」をつくる富士重工業の商標だ。そのスバル車の先行きが気になる動きがあった。
  
 トヨタ自動車が富士重工と業務提携し、これまでの提携先の米ゼネラル・モーターズ(GM)が持っていた株の一部を買って筆頭株主になる。国際的な再編を繰り返してきた業界だが、今回は日米関係を映しているような面がある。

 業績がめざましいトヨタは、米国での販売価格の値上げを発表している。トヨタは否定しているが、値上げも今回の動きも 、経営不振に苦しむGMへの支援とみられている。

 19世紀に欧州で生まれた自動車は20世紀に米国で巨大な産業となった。戦後もGMなどのビッグスリーの時代が続いたが、やがて、トヨタなどの日本車が米国の多くの消費者の支持を得るようになった。その流れは激しく、米国のメーカーは窮地に追い込まれている。

 58年に発売された「スバル360」は、丸くて小さい形から「てんとう虫」とも呼ばれた。富士重工の前身の中島飛行機の技術が凝縮されていた。小さくともきらりと輝く。そんな願いと誇りとが感じられた。そのスバルのマークが、今は、国と国のきしみの緩衝材に使われているように見える。

【天声人語】2005年10月08日(土曜日)付

文字のない世界というものを想像してみる。書類も本も新聞もない。どこか思い切りの良い、さっぱりとした世界のようでもある。しかし、できごとや心にあることを、思うようには記せない。過去と未来が薄れてきて、現在だけが際だちそうだ。文字の記録もないから、ややこしい約束ごとは難しい。

 こんなことを想像したのは、この夏に「文字・活字文化振興法」という法律が成立したからだ。実際に文字や活字がなくなることはないだろうが、現代人の深刻な文字離れに待ったをかけたいという狙いのようだ。読書週間の初日の10月27日を「文字・活字文化の日」と定めた。
  
 第1条を読みながら、おやと思った。「この法律は、文字・活字文化が、人類が長い歴史の中で蓄積してきた知識及び知恵の継承」と始まって、終わるまでざっと200文字に句点がない。新聞記 事だと約20行分にあたる。文字文化を大切にする法律なのにと苦笑したが、文字と活字を顧みるという趣旨にはうなずく。

 現代の文字にまでつながるかもしれない「中国最古の絵文字」が、多数見つかったという。1万年以上前のものだといい、内陸部の岩壁に描かれていた。

 新華社が配信した岩壁の絵を見ると、角が生えたような動物が脚と尾を伸ばしてつっぱっている。狩りのさまだろうか。その姿には、世界各地の洞窟(どうくつ)や岩場に残された絵に通じるものがあるようだ。絵からは、文字の源流への想像を誘われた。

 文字のない時代から、文字に取り囲まれた時代になり、文字の存在を見直す時代にまで来ている。

【天声人語】2005年10月09日(日曜日)付

「チームは売り物じゃない」という横断幕が昨秋、ロンドン市内に掲げられた。英サッカーの強豪マンチェスター・ユナイテッドのファンたちだ。強引にチームを買い取ろうとする米実業家グレーザー氏に反発し、本人に似せた人形を焼いた。

 グレーザー氏は8歳で家業の時計店を継ぎ、13歳で独立した。投資事業で成功しアメフット球団を所有する富豪となった。半年余りでマンチェスター株を70%支配し、買収提案を拒む旧経営陣をねじ伏せた。グレーザー氏には他国のサッカーも投資先の一つにすぎない。地元ファンをなだめるようなこともしなかった。
  
 「買収お断り」「魂は買えない」。そんなプラカードが先日、甲子園の客席に揺れた。阪神電気鉄道株を40%近くまで買い進めた村上世彰(よしあき)氏に向けたファンの抗議である。

 村上氏は大阪・道頓堀の近くで育った。株取引は小4の頃から。「これで小遣いを稼いでみろ」と父親から100万円を渡された。中学では、四季報や経済紙を愛読した。

 東大から通産省に進んだ村上氏が30歳で書いたという小説の草稿を読んでみた。題は「滅びゆく日本」。主人公は大阪生まれで、東大在学中から株で財をなす。内閣官房長官となって女性首相を支え、「生きてる間に日本を動かすでっかいことをやりたい」と語る。

 中高の6年間、阪神電車で通学した村上氏は、「球団名、甲子園、縦じまユニホームに愛着を感じる」とファンを自任する。同時に、球団を投資対象と見ていることも隠さない。「村上・タイガース戦」から目が離せない。

【天声人語】2005年10月10日(月曜日)付

 ワンマン宰相の異名をとった吉田茂は、人を食ったような逸話をいくつも残している。若き外交官時代、旧知の寺内正毅(まさたけ)首相に「秘書官になれ」と言われ、「総理大臣は務まると思いますが、総理大臣秘書官は務まりません」と答えて「出世」を棒に振った。

 戦後は、戦犯容疑者に指定されて自殺した近衛文麿(ふみまろ)の家を借りて、来客に「ここに寝ていたら、近衛が出てくるだろうと思ってね」と平然と語っている。その破天荒さは時に、したたかな実利主義とも結びついた。

 再軍備を迫る米国にしぶとく抵抗した吉田の軽武装経済中心路線が、戦後日本の繁栄の基礎を作ったことは、よく知られている。「そうした商人的政治観は、必ずしも彼の本質ではなかった」とみるのは、新しい伝記「吉田茂——尊皇の政治家」(岩波新書)を執筆した原彬久(よしひさ)・東京国際大教授だ。

 原さんに よれば、吉田を動かした原動力は、皇室への尊敬が社会秩序の基礎だという信念だった。少年時代の国粋主義教育に加えて、夫人を通して明治維新の元勲大久保利通(としみち)に連なる系譜は、彼の尊皇の念を一層強めた。

 「占領軍に協力したのも、マッカーサー元帥が日本の統治のために皇室存続を決断したからだ」と原さん。さらに吉田は、戦争責任から一時は退位すべきか迷っていた昭和天皇を思いとどまらせた。

 天皇の権威を守るためだっただろうが、「天皇が自らの戦争責任を形にできなかった歴史的含蓄は重い」と原さんは言う。今日まで残る日本の過去の問題を考えると、吉田が落とした影もまた大きかった。